生活のト書き1

周期とリズムは同じことなのかもしれないがリズムとしては7、周波数がちょっと違うがベースはベース。外乱はとくにない、寒いくらいだがミクロには変化ではない。前日の負債を返す。向こうは上げ、特に考察はしない。銃は奪ってないらしい。まずは目くばせ。起きてない間に起こることに対してだけスタンスをとってあるので、その結果だけ確認。まあこんなもん。そのまま作業的に予想を立てて、考える時間があったらもう一度帰ってくるつもりだったが、そうはならないことのほうが多い。ambientのリファレンスが残っていて、これも負債だったことを思い出す。思い出しついでに体験の話も思い出して、これって要は演出の過剰を嫌ってるのではと思いつく。チケットも駅も箱もすべて演出か、とくにもぎり。あとは統計。「統計は事物の予算である。そして予算なくしては公共の福祉も無い」─ナポレオン・ボナパルト。予算予算!セヴラックの楽譜を眺める必要性がある気がしてきたのでいったん買う。軽やかな楽譜になっているはずであるという予算。

 

言われて正して道に沿うという教育機会がありすぎて、言われる前にやってしまうことのかっこよさの価値が上がりすぎている。単純に需給。

 

だんだん気持ちが社会的になってきたので約束の話を思い出す。昔から東京の任意の箇所に行くために要する時間は一律30分くらいだと思っているが目的地が30分のところにあったことがない。処理すべき靴がある。このサイズの足の人間をしらない。目的地も目的人間もいない領域がある。コメント欄は自由に書き込んでいいと言われて、ほんとに自由に書くやつがいるかよという話も同じように目線の話になるみたい。

 

スクラップ。まず大きな歴史の矢印を共有して、手分けしてスクラップすると自壊してしまうのだろうか。一人でやる必要はなさそう。笑い・カーニヴァル

ただ、問題はこれからである。いまや<民衆の笑い>はどこに「記憶」されているのであろうか。たしかに、文学、サーカス、演劇、大道芸、映画などのなかにはそうした世界感覚を活かしているものがないわけではない。一方、テレビなどでお笑い芸人が互いに陽気に笑いあっている「小カーニヴァル」には、この世の異化などひとかけらもない。

やはりエンターテインメントというのがそもそも均質化を前提にしないと考えられないのがもっとも悪で、そういう方法論や自覚から解脱する技術を詳らかにするべき

 

猫や犬をめでるのは古い、時代は人間