生活のト書き3

藤井もパンサラッサも山形も勝った。ZETAは負けた。町田はもう少しいいサッカーかと思ったらそうでもないが、群馬のほうが悲しい。タウリは意外と速い。内山がすごい、これが天才っていうのかもしれん。cvMaxって何がすごかったんだっけというところの整理が自分でできていない。OWは難しい。バスケがみれない。

会議に参加すると疲労感で何かした感じがしたとか対面が表情が見れていいとかは要するに手ごたえの話をしているが、健常発達の話を考えないといけない。

選手の能力で勝ちたいと戸田が言ってる。これはかなり真理っぽい。

いがいと軽井沢はいい。3月にソラホテルに泊まりたい。

Liv.eからのMaxoの脈は取り出して説明するのに耐えるのでえらいのでは?という気がした。ullaも同じくらいえらいんだが取り出すのが難しい。

ナポリを見ているとほとんどの人間が限界に向かってサッカーしている。Jしかみていないと意外とそこが違うんじゃないかという気持ちになる。ダイナミックなのはサボりの話。なんといっても体育館で全力で走れるのがすでにえらい。怖くて走れない。

世界市民的な視点でいたいので「日本語がどう」「日本人はどう」という話は避けているが、柄谷と永井に分かれていくのはかなり日本ぽい可能性がある。普通に外から言うべきなのでここにいてはいけない。一方で西田は読まないといけない。アーレントはそこまで読まなくてもいいがカントは必要になる。

坂本龍一のいうとおり聴きたい音だけ作る必要がある。チェリビダッケが偉い。オタクは速い音楽が好きだが、そもそもリズムの硬質化が背景化している。グレン・グールドがすでに言っている。4度堆積。

 

セリフ

なぜ各人が「小さな幸せ」を追い求めるのではだめになってしまったのかという話は、立場は高いが暇で教養を高めるしかなかったSamuraiがそのまま広まってしまったと理解していいのではという気がしている。個人の生活面での偶然性は、統計に基づく政策や演繹してきた法律が解決に何か役割を果たすことはなく、お上を理解する志向性をもたない限り自分の機嫌をとることはできない。本能に従うことを自ら妨げるようなモチベーションの源泉として頼れそうなのは粋かという気持ちにもなる

生活のト書き2

寝かしておくのがえらいというたぐいのものが多いので、特にみることなく椅子に座ってゴミ捨てなどする。檜垣先生のいう私的財産からの自己の援用および自己の統治と、柄谷の読むカントによる私的/公的の転倒を結びつける仕事を思いついたが、価値があるかはわからない、いややればそれだけで価値だといってるのが両氏かという気もしてくる。

一切の経済活動が演出であるという直感はかなり間接的に浮かんできたものだが、やはりよさそうである。結局何かをお勧めするというような単純でなにか善ぽさのある行動でも演出による効果を測定することでのみ企ての成否を判断できるという作りになっていることが背中を押してくれる。

技法に注力することに対してバフチンが言ってたことが思い出せない

生活のト書き1

周期とリズムは同じことなのかもしれないがリズムとしては7、周波数がちょっと違うがベースはベース。外乱はとくにない、寒いくらいだがミクロには変化ではない。前日の負債を返す。向こうは上げ、特に考察はしない。銃は奪ってないらしい。まずは目くばせ。起きてない間に起こることに対してだけスタンスをとってあるので、その結果だけ確認。まあこんなもん。そのまま作業的に予想を立てて、考える時間があったらもう一度帰ってくるつもりだったが、そうはならないことのほうが多い。ambientのリファレンスが残っていて、これも負債だったことを思い出す。思い出しついでに体験の話も思い出して、これって要は演出の過剰を嫌ってるのではと思いつく。チケットも駅も箱もすべて演出か、とくにもぎり。あとは統計。「統計は事物の予算である。そして予算なくしては公共の福祉も無い」─ナポレオン・ボナパルト。予算予算!セヴラックの楽譜を眺める必要性がある気がしてきたのでいったん買う。軽やかな楽譜になっているはずであるという予算。

 

言われて正して道に沿うという教育機会がありすぎて、言われる前にやってしまうことのかっこよさの価値が上がりすぎている。単純に需給。

 

だんだん気持ちが社会的になってきたので約束の話を思い出す。昔から東京の任意の箇所に行くために要する時間は一律30分くらいだと思っているが目的地が30分のところにあったことがない。処理すべき靴がある。このサイズの足の人間をしらない。目的地も目的人間もいない領域がある。コメント欄は自由に書き込んでいいと言われて、ほんとに自由に書くやつがいるかよという話も同じように目線の話になるみたい。

 

スクラップ。まず大きな歴史の矢印を共有して、手分けしてスクラップすると自壊してしまうのだろうか。一人でやる必要はなさそう。笑い・カーニヴァル

ただ、問題はこれからである。いまや<民衆の笑い>はどこに「記憶」されているのであろうか。たしかに、文学、サーカス、演劇、大道芸、映画などのなかにはそうした世界感覚を活かしているものがないわけではない。一方、テレビなどでお笑い芸人が互いに陽気に笑いあっている「小カーニヴァル」には、この世の異化などひとかけらもない。

やはりエンターテインメントというのがそもそも均質化を前提にしないと考えられないのがもっとも悪で、そういう方法論や自覚から解脱する技術を詳らかにするべき

 

猫や犬をめでるのは古い、時代は人間